2014年11月24日

ゾンビVS狂犬

ゾンビは最初、本当に弱かった。

ゾンビは確かに人間を喰べる。が、正しく対応(武装したりショッピングモールに籠城したりバスで逃げたり、あとセックスしない等)すれば、殺害は不可能ではない。ゾンビは、エイリアンやプレデターやランボーとは違う。ゾンビはそういったモンスターに比べ、圧倒的に弱いのだ。遅いし頭悪いし柔らかい。決して、人智を越えた怪獣ではない。
いや。だからこそ。
殺せるから、殺せないのだ。
ゾンビは我々を殺して、喰らう。だから殺さねばならない。頭を撃ち抜き、頸を刎ね、ガソリンで焼却せねばならない。
さっきまで俺たちと同じ姿だったものを、自分の手で。
その罪悪感と、胸糞の悪さ。
昨日まで友だった・家族だった・恋人だった、そして見知らぬ誰かだった人を、自分の生存の為に殺さねばならぬ不条理。
だからそこに葛藤と選択が生まれる。
ゾンビは弱い。そしてこのことが、このモンスターを絶望的/魅力的にした。
ゾンビが弱いからこそ、我々は自分で殺すことができる。そして醜い怪物に感情移入してしまう。手が出せない程強ければ、諦めるしかない。軍隊でも待って震えているしかない。襲われたら、座して死を待てば良い。
しかし、殺せるなら。しかも『変身!』も『合体!』も『必殺!』も要らない。最悪バットでなんとかなる。俺たちは、俺たちのまま目の前の、自分がよく知っている誰かの姿をしたゾンビを殺せるか否か。そこに葛藤が生まれ、そして結局俺たちは悩みながらも殺し、その罪悪感の中をサバイヴしていくしかない。それを眼前に突きつけられてきた。

俺はそんな、傷付きやすいけど生真面目で個性的なゾンビが、大好きだった。

しかし、愚かな俺たちは、ゾンビを殺すことにすら馴れてしまった。他の様々なガジェットと同じように、刺激は薄れていった。雑に消費されていったゾンビに、もう人々は恐怖しない。だって殺したって何とも思わないもの。そうするともう、ゾンビは唯の貧弱なザコ敵だ。如何に大量に/新しく/格好良く殺すか。そこにもう葛藤も罪悪感も、無くなった。
ゾンビは便利だ。面倒な造形も、着ぐるみも、大規模なCGもいらないモンスターだ。エキストラをゆっくり動かしときゃなんとか画になる。事実初期のゾンビ映画はそうやって低予算で作られた。しかしそんなインディーズ・スピリットも、溢れかえるフォロワーの剽窃の前にくすんでいった。
また、ゲームでもゾンビはヒットコンテンツとなった。どれだけ酷く大量に虐殺しても、人間じゃないから大丈夫。そして人間っぽいから快感も大きい。死体損壊などゴア表現の規制をかいくぐるための、画期的な解決策としてゾンビが使われた。当然ながらその中には傑作も多いが、大半で極めて安易にゾンビは扱われ、ますますコンテンツとして消費されていった。
そうして風化していくゾンビ物。しかし、その流れを変えようと様々な工夫が生まれた。コメディになったりもした。
その中での最大の変化が、ゾンビの強化だ。
特効やCGの爆発的進化は、それまでただの顔色の悪い怪我人だったゾンビの外見を、更に怪物的なものに変えた。
ゾンビの能力も進化した。
先ずメチャクチャ増殖するようになった。
そして走り出した。
そこからはもう、口からなんか吐いたり、腕が伸びたり、爆発したり、デカくなったり、何が何だか。そうしていつの間にかゾンビ自身が『変身!』していた。ゾンビはもう、ごく普通の馬鹿みたいに強い、唯のクリーチャーだった。

そこに、以前の弱っちいゾンビの姿は無かった。俺が好きだったゾンビはもういなかった。もちろんそれはそれで魅力的だし、相変わらず好きだけど、なんだか無理して流行に合わせているみたいで、本来の良さを捨ててしまっているような、そんな淋しさを覚えた。

2丁拳銃とカンフーで美女にやられる、クールなデザインのゾンビを観ながら、俺はなんだか遠い眼をしていたんだ。

、、、なんでこんなことを書いたかというと、ここからが本題なのだけど、MUの『狂犬百景』という芝居を観て、久々にゾンビアンテナにビビッと来たからなのです。
この芝居にゾンビは一匹も出てこない。舞台に出ないとかじゃなくて物語として出てこない。だが、とてもとても「ゾンビモノを観た!」という満足感があった。それは多分、先に書いたような往年のゾンビモノが持っていた、葛藤や選択がきちんと描かれていたからだと思います。

タイトルの通り、この物語で増殖していくのはゾンビではなく狂犬病に感染した犬だ。そうして凶暴化した犬(劇中で『狂犬病』と言っているが実際は多分別のウイルス?)によって徐々に壊れていく日常が連作短編として描かれていく、、、
まずこのね、「徐々に壊れていく日常」の切り取り方の巧みさでニヤニヤできるのが素敵。日常が非日常に侵食されていく中で、クソみたいな人間があくまでもクソみたいな日常に絡め取られたまま生きようともがく様が滑稽で且つ可愛らしくて切なくて。

そうなんですよ、俺がアポカリプスが好きなのはこういう瞬間が観られるからなんですよ!

と、客席で不気味にニヤニヤしながらたまに咳き込んでいたのが私です。

話を戻すと、俺は『狂犬百景』をゾンビモノ足らしめているのは、なによりその「ゾンビ≒狂犬」設定だと思うのです。
ゾンビに感情移入も葛藤も出来なくなった現代のシーンで、何故この作品に「ゾンビ感」を感じたかというと、その対象がゾンビではなく犬だからだと思います。
去勢され愛玩動物と成り下がった現代の犬、それは最早ペットという名の商品です。売られ捨てられ牙を失った彼らが人間社会に襲いかかる、、、よく指摘されることですが、徐々に主体性や個性を奪われていった現代人の、「社会の犠牲者の狂気」のメタファーとしてのゾンビ。そしてペットは現代日本社会の、その病理の犠牲者です。犠牲者(大衆だったりペットだったり)の破壊衝動の発露。そう考えれば「ゾンビ≒狂犬」という設定はゾンビ論的にも理に適った巧みな設定と言えるでしょう。
また、「ある人にとっては家族、だがある人にとっては唯のケダモノ」という犬というものの持つ特性も、「殺すか殺さないか」というドラマを生みやすい、唯のゾンビにはない部分だったと思います。
そして、愛玩犬が、非常にか弱い存在である、ということも大きいと思います。
やはり、俺はゾンビは弱い方が好きなのです。ハンマーで殴れば、狂犬は死にます。唯の犬ですから。『鳥』のように飛べるわけではないし、『ピラニア』のようにそもそも凶暴なわけでもありません。第一あいつらより可愛いらしい。
だから葛藤が生まれます。
前述しましたが、もう唯のゾンビに儚さも切なさもの哀しさもも感じられなくなってしまったゾンビ不感症・ゾンビンポの俺にとっても、劇中で狂犬が面白半分に殺されていく様は気分の良いものではありませんでした。そしてその不快感が、最初にゾンビモノを観た時に感じた、そしてずっと求めてきた感覚を呼び起こしました。
殺せるか。多分殺せる。だが絶対に後悔する。
そういった選択肢を眼前に突きつけられた。「ゾンビ≒狂犬」への、感情移入が間違いなく起こった。
だから『狂犬百景』は紛れもなく、俺がゾンビモノで観たいものを観せてくれました。

他にも、3景と4景で暴力の矢印が逆転するところ、まさに『ゾンビ』とか、あと『デビルズ・リジェクト』みたいでゾクッと気持良かった。これも近年のゾンビモノであんまり無かったので。
あと相変わらず台詞が本当に笑える(俺が劇場で声出して笑う数少ない劇団がMUです)ので、尺と座席で身体は痛かったけど、ゾンビ好きとしても非常に満足できました。あと観終わったあとキュアロンの『トゥモロー・ワールド』を思い出しました。何故か解りませんが。

オススメ、と言いたいけど今日で終わりか。勿体無い。

やっぱり俺、好きです、ゾンビ。










posted by 淺越岳人 at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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